SRG 三陸グループ

起業

1940年、石油事業及び陸運事業は国策事業となった。陸運統制令の下、石油配給統制株式会社が作られた。中村稔は、新会社の非常勤取締役となった。(三陸社は一時的に休業状態に入った。)
1941年7月、住居を新橋から三鷹に移した。同年12月、太平洋戦争が始まった。
1945年3月、東京大空襲で、新橋にあった三陸社元本社は全焼した。
8月15日終戦。それから2ヶ月後の10月、陸運統制令が廃止され、統合によって出来た新会社は解散した。
1947年、中村稔は新橋本社を復活させ、再び三陸社として事業を再開した。(1945年〜1950年までの三陸社の記録は殆ど無い。
ただ、終戦後の2年間、中村稔は家で農業をしていた。当時は国民一家族に対して、国から月500円の配給があったらしいが、大家族の中村家(7人家族)はそれでは足りず生活が貧窮したため、再び仕事を再開したのではないか?と、当時中学生だった中村正雄会長は記憶している。)
1950年2月、三陸社を三陸運送株式会社に社名及び組織変更をし、昭和石油株式会社と専属運送契約を締結した。昭和石油株式会社は、太平洋戦争で損傷した川崎製油所の修繕作業を終わらせ、再稼働を開始した。 三陸運送(株)は、タンクローリー5台を擁し、本格的に石油製品(ガソリン、灯油、軽油、重油)の輸送を開始した。この年以降、国の基幹産業である石油製品輸送の一翼を担うこととなり、高度成長期の日本の経済発展に大きく貢献することになる。

重油ローリー / 1950年頃